TSUKUBA FRONTIER #023:いにしえの人々との遭遇 仏教のルーツに残された思索の痕跡を辿る
人文社会系 吉水 千鹤子(よしみず ちづこ)教授
东京生まれ。学习院大学で哲学を、东京大学大学院でインド哲学?仏教学を学び、1994年オーストリアのウィーン大学でチベット学?仏教学分野の博士号(笔丑.顿.)を取得。2003年筑波大学に着任、2011年より现职。2018年现在、日本学术会议连携会员、国际仏教学会东アジア代表を务める。インドとチベットの仏教思想史を専门とし、とくに中観思想、仏教论理学の哲学的内容とその変迁、インドからチベットへ仏教思想が伝承されるプロセスを追う。人文社会系における海外教育研究ユニット招致プログラムの责任者として国际的な研究拠点形成に尽力する。
「私をなくす」という生き方の极意
仏教には「神」への信仰はありません。普通の人々が修行、つまり自己改革をしてより良い人间になることが、仏教が目指す究极の到达点です。そのキーワードは「无我」「无常」。人は谁でも心安らかに暮らしたいものですが、社会的地位や财产、家族などを「私のもの」だと执着してしまうと、それらを失ったり、思うようにならないことへの不安が募ります。また、どんなに裕福でも、病気や老いから逃れることはできません。そもそもブッダが、王子という地位や妻子を捨てて修行の旅に出たのは、そういった不安から解き放たれ、真の「安心」を得るためでした。そうして仏教がたどり着いたのが、无我、つまり「私をなくす」という考え方です。
「私」とは、生まれた时から持つ肉体や精神を、自分がそう认识しているだけで、客観的な実体として存在しているとは言えず、そこにこだわっても仕方がありません。ブッダが説いたのは、「私」という思いを减らすこと。そして、人の死など、物事には必ず终わりがあり、移ろい、无常だということ。それは理屈ではわかっていても、容易には受け入れられないでしょう。けれども、神のような超越的なものにすがるのではなく、现実を受け入れ、ひたすら自分の心の内で考えなければなりません。滝に打たれたり座禅を组まなくても、その葛藤こそが修行なのです。オリジナルの仏教は极めて合理的で、现代の私たちも十分に理解できる思想です。
インドからチベットへ
仏教が生まれた纪元前5世纪ごろのインドには「书く」という手段や文化がなく、ブッダの教えは弟子たちの口伝によって広められました。その后、书物としても多くのものが作られましたが、それは异なる国や时代を越えて伝わる过程で、当然、変化していきました。今、私たちがイメージする仏教、お葬式をしたり、极楽浄土や生まれ変わりといった考え方も、后に付け加えられたものです。
仏教は6?8世纪に全盛期を迎え、チベットやネパール、日本にも伝わりました。しかし13世纪ごろになると、ヒンドゥー教やイスラム势力が台头し、インドでの仏教は衰退していきました。一方、チベットでは、民族のアイデンティティとして、大切な心の拠り所となりました。チベット仏教は、今も本来の姿をかなり忠実に守っており、仏教のルーツを探ろうとすれば、チベットに行き当たるのです。もちろん近代化に伴って、僧侣の在り方も変わっていますが、今でも出家する人は多く、一家に僧侣になる者がいることは名誉だと考えられています。しかしながら、仏教にとって激动の时代ともいえる10?13世纪の资料はほとんどなく、研究としては停滞していました。
新たに発见された膨大な书物たち
ところが、2000年代に入ってから、何百册にも及ぶこの时期の书物が、中国の寺院から発见されました。おそらく、17世纪ごろにダライ?ラマが集めて隠しておいたものだろうと言われています。多くの寺院が破壊された文化大革命を経ながら、これだけの资料が残っているのは奇跡的です。现在、世界中の研究者がその解読に取り组んでいます。
これらの资料は仏教研究の流れを大きく変えましたが、日本语で言うところの草书体のような字体で书かれたチベット语の文献を読むのは一苦労です。まず活字体に変换し、それから読み解いていきます。そもそもチベット语がわかる人が少ない上、仏教研究者もそれほど多くはありません。ゲノム解析のように、みんなで手分けして一斉に全容を解明する、といったふうではなく、それぞれ自分の関心のある部分から研究を进めています。
心踊る过去との対话
これらの文献に书かれているのは、当时の人々による仏教の教义の解説です。この时代に新たに多くの仏典がインドのもともとの言语であるサンスクリット语からチベット语に翻訳されました。他国へ広めるには当たり前とはいえ、それを一般信者が行なったとは考えにくく、翻訳の専门家がいたことを示しています。现代のように知识や情报に乏しい时代、しかも文化の异なる国の间で、どうやって言语の変换という复雑な作业が行われ、知恵や思想を共有することができたのでしょうか。私たちの想像以上に、人や文化の交流は盛んだったのかもしれません。そのプロセスを知るヒントがこの中に隠れているはずです。
この时代の人々が、ブッダの教えを巡って、こんなにも多くの书物を书き残したということ自体も惊きです。そこには、その时代の政治や文化などの社会的背景が反映されており、その中でどう生きるべきかを悩み、あれこれ考え抜いた様子もうかがい知ることができます。时には、その书物を书いている人の気持ちまで、手に取るようにわかることもあります。古い资料を読み解くのは地道な作业で、一生をかけても何册も読み进められるわけではありませんが、过去の人々と対话しているような、ワクワクする瞬间がたくさんあります。
仏教研究を通じた他者理解
仏教のような东洋思想は、欧米でも大いに研究されています。筑波大学では、ドイツのハンブルク大学からインド学?チベット学の教授3名をユニットとして招致しました。ユニークなのは、この3名が、ドイツ人?日系アメリカ人?ブータン人と、多様な背景を持っていること。ここに日本人研究者も加わって、国际色豊かな研究环境が整っています。新たな资料の発见は、仏教研究における世界的な连携协力へのニーズを高めます。その拠点となるべく、精力的に研究教育を推进しています。
未読の资料が研究されれば、仏教について、これまでとは全く异なる考え方が见つかるかもしれません。しかし、そのことで现在の宗教としての仏教が変わるということはないでしょう。仏教研究はむしろ、思想研究、あるいは一种の他者理解と捉えるべきです。ブッダが本当に何を语ったのか、直接确かめることはできません。しかし残された资料の中で人々は、ブッダのように安心を得るために、些细なことをとにかくたくさん考え、いろいろな行动を试みています。またそれが书物として読まれていたということは、さらに多くの人々が、生きる上での指针を求めていたわけです。そこには、远い昔のことでありながら、现代人と何か共通するものが感じられます。
海外教育研究ユニット招致プログラム
本学の教育研究力强化のため2014年に発足した制度で、海外の世界トップレベルの大学又は研究机関から研究ユニットを招致する。その1例目として人文社会系では、ハンブルク大学(ドイツ)アジア?アフリカ研究所インド学チベット学研究室から3名の研究者を招聘した。これまでの4年间で、インド学、チベット学、仏教学にまたがる研究拠点を形成するとともに、国际ネットワークの拡充や若手研究者の育成、研究発信においても顕着な成果をあげている。この9月にも国际会议を主催した。
(文責:広報室 サイエンスコミュニケーター)
(2018.10.9更新)
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