TSUKUBA FUTURE #098:自省から対話へ

人文社会系 五十嵐 沙千子 准教授
西洋哲学の原点はソクラテスです。五十嵐さんによれば、ソクラテスが求めたのは「汝みずからを知れ」。大人は「自分のことも世间のこともわかっている」と思っています。ところが大人が「わかっている」と思っていることの多くは、実は「単なる思い込み」にすぎません。それなのに大人は、「いや、これが真実だ」と言うのです。なぜなら「みんながそう言っているのだから」と。「真実ではない」ものを「真実だ」と集団で思い込み、それに缚られ、他人をも缚り、あげくの果てに自分の身动きが取れなくなっているのです。
ソクラテスは、「真実だと思ってしがみついているものはすべて幻」であり、「ほんとうのところ自分は何もわかっていない」ことを「知れ」と言ったのです。それをみんなにわかってもらいたくて、ソクラテスは毎日のように市场に出かけ、「どうしてそう思うのか」「その根拠は何か」「もしそうだとしたら」と问いかけました。自分と向き合うよう迫られた大人は腹を立て、ソクラテスを嫌いました。「揺るがされた」からです。それでも対话の中でだんだん自分の「思い込み」を自覚し、「幻への囚われ」に気づき、その「囚われ」を脱いでいきました。囚われの鎧を脱いで身軽になって初めて、大人たちはやっと深く息が吸えるようになったのです。
人はそうやって「自分であること」を取り戻すと、五十嵐さんは语ります。それがきっとその人の「ほんとうの诞生」なのでしょう。ソクラテスの対话が「产婆术」と呼ばれたのはそのためです。でもそのせいで、ソクラテスは死刑になりました。「共同体の常识をひっくり返した」からです。「囚われ」の锁を切り、重い鎧から大人たちを自由にした罪で、ソクラテスは死んだのです。
五十嵐さんの専攻はドイツ现代思想、なかでもハイデガー、ハーバーマスが専门です。ドイツ现代思想と古代ギリシャ哲学、决して远い関係ではないそうです。ハイデガーは「世人」という言叶を使います。「世间」を気にして浮かないように、外されないように、世人(大人)はみんな不安の中で生きている。それで楽しいわけではないが、生き延びなければならない。だから世人は息を杀して世间向けの着ぐるみを着て穷屈に生きている。でもそれでは、ほんとうの自分の人生を生きているとは言えない。ではどうすればいいのか?これが、ハイデガーがソクラテスから引き継いだ问いでした。ハイデガーは、大人が落ち込んでいる「世界」の构造を明瞭に分析し、自分が投げ込まれている槛を自覚し、その槛から抜け出すための「勇気」を持てるように思想を展开しました。これに対し、ハーバーマスはさらにソクラテスに戻ろうとします。自由になるためには「対话」が必要だというのです。対话の中でそのつど他者といっしょに古い鎧を脱ぎ捨て続けていく以外に、自分が自由になり、幸福に生きる可能性はない。そしてそうやっていっしょに新しく诞生していく仲间こそがほんとうの「友」=「共同性」なのだと、ハーバーマスは考えたのだそうです。
自分との対话は、共同体に刷り込まれた自分との対话であり、自分が隠してきた小さい违和感を感じ、自分を発见することにつながります。その过程では共同体との衝突も起きることでしょう。自分の居场所がなくなるかもと怖くなるかもしれません。でも、そこで共同体と折り合いをつけることは自分を杀すこと、自分を探す対话の道を諦めることは「よく生きること」を放弃すること、哲学の死なのだと、五十嵐さんは语ります。
五十嵐さんは、子供の顷から「お嬢さんらしく」という鎧を押し付けられることにずっと反発してきたそうです。哲学者になったのも、ハイデガーやハーバーマスの研究者になったのも、大学の授业で「哲学学」ではなく「问いと対话」の「哲学」を続けているのも、「自由になるため」でした。「ソクラテス?サンバ?カフェ」と铭打った哲学カフェを2009年から展开するようになったのも、古い自分の鎧を共に脱ぎ捨てていくことの楽しさをみんなと分かち合うためです。五十嵐さんはそれを、「哲学は、まだない答を共に探しにいく冒険」なのだからと表现しています。
五十嵐さんのモットーは、「人生とは今日を生きること」だそうです。「新しい朝が来た? 希望の朝だ」という『ラジオ体操の诗』も大好きと语る五十嵐さんは、いろいろな场所で様々な人と哲学の冒険を今日も続けています。

筑波キャンパスでのソクラテス?サンバ?カフェの一コマ。
谁でも参加自由で、参加者は全员がニックネームを名乗る。
语り合うテーマも、たとえば「自分の気持ちを表に出せないこと」
「働くのがつらいとき」「自分とは何か」「どう生きればいいのか」「家族が死んだとき」など
文責:広報室 サイエンスコミュニケーター