大象传媒

社会?文化

TSUKUBA FUTURE #087:ディープ?エコロジーにひたる

タイトル画像

人間系 山本 容子 助教


 日本における环境教育は、1970年代のはじめに、公害问题への対応や自然保护の必要性からスタートしました。しかしその时点では、公害公司や开発业者が加害者で、一般住民は健康被害や自然破壊を被る被害者という暗黙の构図がありました。80年代になると、オゾン层の破壊、资源枯渇问题、地球温暖化、热帯林の破壊など、言うなれば「谁もが加害者」的な构図が见えてきました。それと同时に、その意味や対策を考えるにあたって地球生态系という视点が必要となり、自然観や环境思想を问う环境教育の重要性が再认识されることになりました。


 そうした倾向は、公害、环境汚染から自然保护へ、さらには环境主义思想の诞生へという世界の动向と同じでした。世界の流れの中で70年代半ばに登场したのが、ノルウェーの哲学者アルネ?ネスが提唱したディープ?エコロジーです。その思想は、スピノザやカンジーの哲学に発し、禅思想のほか、ソローやレオポルド、レーチェル?カーソンといったアメリカのネイチャー思想にも影响を受けた伦理観に根差しています。山本さんによれば、その根干をなすのは、森罗万象との一体感を持てるようになって精神的な成熟?成长をするという「自己実现」と、生きとし生けるものはすべて平等と认识する「生命圏平等主义」という考え方なのだそうです。宫沢贤治の思想が近いといえば、なんとなくわかるかもしれません。


生物のカリキュラムに环境教育をうまく组み込む方法に取り组んでいる


 山本さんは、高校生の顷、环境问题の解决に贡献できる仕事に就きたいと思うようになりました。そのときは、化学の研究が公害问题の解决につながるのではないかと、漠然と考えていたといいます。しかし、何げなく手にしたレーチェル?カーソンの『沉黙の春』が、その后の人生にとっての転机となりました。化学ではなく生物、それも生态学を学びたいと强く思ったのです。入学した筑波大学の动物生态学研究室では、大学植物见本园でのアリの行动観察をテーマに选びました。ただ、実际のフィールドワークによるデータ収集の难しさから、将来について悩む日々を送っていました。そんなとき、研究室の先辈が、环境教育という分野もあるよと教えてくれたそうです。「私がやりたかったのはこれだ」と、山本さんは、筑波大学大学院教育研究科理科教育コースの修士课程に进学しました。そこで、环境教育のプログラム开発とその実践を目指す中で出合ったのがディープ?エコロジー教育でした。


 日本のカリキュラムでは、環境教育的な内容は、理科や地理、道徳、公民などを主として、複数の教科に盛り込まれています。アメリカの代表的な生物カリキュラムであるBiological Sciences Curriculum Study(BSCS)では、相対立する二つの環境倫理、「人間中心主義的環境倫理」と「ディープ?エコロジー環境倫理」とを比較した上で、あなたが考える環境倫理に照らしてどう思うかと生徒に問いかける課題があるそうです。前者は、人間生活を最優先して環境を利用するという考え方で、後者は上述のディープ?エコロジー思想の考え方です。そのほか、欧米では民間の団体が主催する各種のディープ?エコロジー環境教育プログラムが存在します。山本さんは、2年間の大学院とその後15年間の高校教員生活を通じて、日本の教育現場でそれらをアレンジしたものを断続的に試行してきました。ディープ?エコロジーという用語やその特別な説明はしないまま、校庭の草木を生徒にあてがい、ときには地面に敷いたシートに寝転がせて、樹木の「気持ち」を感じさせてみました(身近な自然との一体化体験の実践)。すると生徒たちからは、「癒された」、「落ち着く」、さらには「自然に生かされていると思った」という感想が聞かれました。別のアンケート調査でも、生命圏平等主義的な考え方にはかなり親和性が高いことがわかりました。

高いことがわかりました。

高校で生物を教えていた顷


 自然に亲しむ时间を取れば、生徒たちはそこから何かを感じ取るようです。山本さんの研究は、环境教育の新しい动きであるバイオフィリア概念を生物教育に取り入れることで环境伦理の意识を育む试みにシフトしています。バイオフィリアというのは、人には生命や自然を爱好する気持ちが生まれつき组み込まれているとする仮説です。この仮説が正しいとしたら、幼い顷からこの気持ちを引き出すプログラムを开発すれば、环境伦理の意识が自ずと养われる可能性があります。环境伦理を声高に叫ばずとも、自然との一体感を身近に感じられるような社会、教育がそれにどれだけ贡献できるか、山本さんの挑戦は続きます。


文責:広報室 サイエンスコミュニケーター


関连リンク