CHANGEMAKERS #8 「心を常に軽快に!」~恩师の言叶を胸にしまい、新たな道を切り拓く 本徳 亜矢子 さん
「心を常に軽快に!」
恩师の言叶を胸にしまい、新たな道を切り拓く
恩师の言叶を胸にしまい、新たな道を切り拓く

アクセンチュア ビジネスコンサルティング本部
人材?组织変革プラクティス日本统括
マネジング?ディレクター
本徳 亜矢子(ほんとく あやこ) さん
PROFILE
1999年、筑波大学大学院を修了后、
アクセンチュアに入社。
业务プロセス/システム构筑や事业统廃合に関わるプロジェクト支援等、
幅広くコンサルティング案件を手掛ける。
近年は、人材组织変革の専门家として、
大规模な公司変革における人と组织の成长戦略策定と実行支援、
デジタル人材育成、チェンジマネジメントを中心に数多くのクライアントを支援
世界有数のコンサルティングファーム、アクセンチュアで、人材育成や组织改革のコンサルタントとして活跃する本徳亜矢子さん。筑波大学在学中は、文化人类学を専攻し、クジラの研究をしていました。どんな大学生活を送っていたのか、そして、当时の経験や指导教官の言叶が、今の仕事や生き方にどのように影响を与えているのか...本徳さんに、お话を伺いました。
アクセンチュアは、世界最大级の総合コンサルティング公司であり、デジタルやテクノロジーを活用してお客様である公司の全社変革の実行を支援しています。
そして、公司がビジネスモデルを転换したり新规サービスを创出したりするような大きな変革をする际には、必ず组织体制や人材やカルチャー変革が必要になるのですが、私はその组织?人材の変革支援を専门にしています。
近年ではとくに、生成础滨によりほぼ全ての业务が何らかの影响を受け、従业员もリスキリングや働き方の変化が求められつつありますが、まさにこのような変革をお客様と一绪に创出して実行していくというのが私の今の役割です。
そうですね。まさにこれからの大きなテーマの一つになると思います。
今、労働力人口の减少と高齢化の中で、公司においてはいかに50代以上の人材に活跃いただくかが大きなチャレンジとなっています。公司内で培ってきた知识や人脉を活かしつつ、生成础滨を活用して新たなスキルを获得することが求められます。加えて、日本型経営モデルと言われる、従来の组织运営、人事制度、カルチャー等は保持すべきところは残しつつ、时代や状况に合わせてアップデートしてくことが必要です。
リスキルもカルチャー変革も、言叶で书くと简単なのですが、実际に青写真を描いて具体化し、実践し成果を出すに至るのは本当に难しく、思う通りにいかないことも多々あります。私も毎回お客様と共に悩みながら改革に携わっていますが、そんななかでも一つずつ成果を出し変化を実感するというのがこの仕事の喜びでもあります。
私は、子供の顷からクジラという生き物に兴味がありました。育ったのは冈山で瀬戸内海に近いところなのでクジラは身近ではなかったのですが、クジラという生き物にとても兴味があったのです。
大学で何を勉强しようかと思った时に、周囲の友人は文学部とか経済学部、商学部といった学部を选択する人が多かったのですが、私はせっかくだから好きなことを思いっきり勉强してみたいと思いクジラを选びました。
では、クジラをどういう角度から勉强するか? 例えば海洋学や生物学など、いろいろあると思うんですけど、たまたま『クジラの文化人类学』っていう本を见つけまして、こういう学问があるんだなと!
その时、初めて文化人类学という言叶を知り、「なんか面白そうだな、クジラと文化人类学っていうところで何か勉强できないか」と高校生の顷に思い立ったんです。
高校に、たまたま筑波大学出身の社会科の先生がいらっしゃったので、ちょっと话をしてみたら、文化人类学とか民俗学とかそういうことをやっている先生がいるよ、ということを教えてもらいました。
その先生が母校を勧めてくれたんですね。
あと、私の母亲が筑波大学の前身である东京教育大学出身で、母亲の同级生が、当时、筑波大学で先生をされていたんですよね。なので、母からもやっぱり筑波っていう言叶は闻いていたので、あまり、深く考えずに、「だったら筑波に行こう」って思ったんです。
やっぱり生活がすごく変わりました。

それまで冈山で家族と一绪に暮らしていて、学校と家の往復だけだったのが、一人暮らしを始めるために家を出たことが、すごく変化としては大きかったです。
勉强や大学のことよりも、生活自体が変わったということが自分にとっては大きかった印象があります。
入学して様々な讲义を聴讲するなかで、大学で学ぶことは高校生までの受験勉强とは全然违うんだな、っていうことが分かるなど、いろいろ発见がありましたね。
学ぶことも幅広いですし、これまで闻いたことがないような学问を筑波大学ではやっている人が大势いました。
例えば、オリエント考古学とか宗教学とか、そういう学问をやっている人が、当时、私の周りには多かったんですね。考古学のような、ちょっと想像したことすらないような学问をこんなに热心にやっている人がいるんだと思って、すごく新鲜でしたね。
私は平砂(学生宿舎)ですね。
1年だけそこに居て、2年生からは近所のアパートに移りました。
ものすごくありますね。
これはすごく独特で、大人になってからも、こういう环境ってないなと思うんです。
通常の学生生活だと、学校と自宅のようにオフィシャルとプライベートがわかれていますが、筑波ってある意味それがないんですよね。
通学中に会う。そして、教室で会う。寮に帰ってきて、寮には吉池っていうスーパーがあったんですけど、スーパーに买い物に行っても人に会う。お风吕も、今もそうですかね?共同のお风吕があって、お风吕に行っても友达に会っちゃうんですね。
なんて言うんでしょうね。
とても不思议な感覚です。
ずっと合宿してるような感じでしょうか。
ないですね。やっぱり。
例えば、今、社会人になって、会社で何か嫌なことがあっても、家に帰ったらちょっと距离を置ける。
心理的にも物理的にもそれができるってことがあると思うんですけど、筑波ってそれがないですよね。
何かあってもすぐみんなに会っちゃう。
ただ、私の場合、それはそんなにネガティブなことはなくて、本当にみんなと仲良く毎日を楽しく過ごしました。 みんな一人暮らしが初めての18歳や19歳なので、いつもみんなでご飯を作って食べるとか、誰かの部屋にずっといるとか、本当にそんなことばっかりやってましたね。
忘れられないですね。
私、「人との距离が近い」ってよく言われるんですね。
心の距离というか、例えば、初めて会った人とでも结构すぐいろんな话をするとか、自分のことをついつい话してしまうとか。
これって结构、筑波の时の経験が影响しているのかな、と思うことがあります。
筑波って、あまり隠し事ができないというか、みんな隣に住んでたり、上の阶に住んでたり、寮の廊下を歩けば谁かに会ったりするようなところなので、何やってんの?とか、どこ行くの?とか、すぐにそういう会话が自然と出てきて、そういう风に人との距离を缩める経験をずっとやってた感じがしますね。
そう言われてみるとそうですね。
ただ、もちろん最初からうまくできたわけではなくて、最初に行った时に役场に行ってみたりとか、捕鲸会社を覗いてみたりとか、それこそ地元の商店みたいなところを覗いてみたりして、さてどこから行こうかって...。
でも初回は、捕鲸会社の人に声をかけられずに町をぐるっと歩いて帰ってくるとか、そういうことも実はあったりしたんです。
でも、ここでまごまごしてても进まないなと思い、意を决してもう1回、捕鲸会社に访ねてみてとかですね。
当时、若さというのもあったと思うんですけど、1回そうやって入り込んでしまうと、すごくよくしていただいて。
「ずっとここに来るんだったら、あそこの民宿泊まんなよ。」みたいな感じで、民宿を绍介していただいて。「じゃあ、そこに夏中いて毎日解体场に来て调査すれば」とか、なんだかんだ、いつも夜になると「今日ご饭食べるから、おいで」みたいなのとかですね。本当にすごくよくしていただきました。
ただ、今振り返ると、あんなに良くしていただいたのに、御礼が尽くせていなかった、恩返しできていない、といった反省もあります。当时の鮎川の皆様に直接恩返しするのは难しいですが、当时受けた恩は折に触れて思い出します。
そういう意味で、今思うと、すごく活かされているのかもしれないですね。
クジラって渔期があって、确か当时7月1日から9月末までが渔期だったんですけれども、例えば鮎川ではその年にツチクジラ20头とか、捕获枠が决まっているんです。
现地では、毎朝のクジラの解体と流通先、分配方法や调理方法、捕鲸関係者へのインタビューが主な调査内容でした。
沿岸捕鲸なので日帰り渔が中心で、前日捕获したクジラが夜中岸壁につながれていて、翌朝の4时ぐらいからクジラの解体が解体场で始まるんですけど、クジラが捕获された日は毎日それを见学させてもらいました。
仕事中に话しかけると怒られるんですけど、终わるところで、あの肉はどういう肉だとか、この道具は何かとか、この肉はどこに运ばれるのかとか、そういうことを闻きました。
今考えると本当にずうずうしいんですけど、クジラが获れなかった时や渔がなかった日は、捕鲸船に乗っている方々の自宅に伺って、例えば若い顷、南氷洋でシロナガスクジラ取ってたとか、大型捕鲸でこんなことやってたみたいな话をインタビューしたりしました。
まさにそうですね。
私が结局论文で书いたのも、アメリカがやっていた商业捕鲸のような捕鲸と、日本が昔から沿岸でやっていた沿岸小型捕鲸は别物なので、商业捕鲸は规制すべきだけれども沿岸小型捕鲸は伝统文化だから守っていかなければいけないのではないかという、仮説から始まった研究でした。
ただ话を闻くと、そんな綺丽事ではなくて、やっぱり皆さん商业捕鲸が禁止になったから沿岸小型捕鲸に来たっていう方が多かったりするので、そういうのが私は非常に兴味深いなと思いました。
クジラがある生活っていうんですかね。
鮎川でもやっぱりクジラ肉が取れたら近所の人に分けてとか、いつも食卓にクジラの肉があるとかですね。
クジラの季节になると人が集まってくる、人とのつながりが确认される、みたいなのが面白いと思ったんですよね。
就职することも考えたんですけど、その时、鮎川で研究していて、もうちょっとクジラの勉强がしたいなっていうのもあったので、修士课程に进みました。
きっと、筑波大学の居心地が良かったんでしょうね。
あと2年研究ができるとなって、大学院の1年生の时にちょっと违う観点からクジラを勉强しようと思い立ち、小笠原に行きました。
小笠原の父岛はホエールウオッチングが盛んなところで、捕鲸ではないんです。
小笠原のユースホステルがあるんですけど、そこに住み込みで働かせてもらいました。夏休みプラスアルファだったと思いますが、约3ヶ月。
その时期は、ホエールウオッチングもそうですけど、クジラやイルカに癒されようと、観光客がたくさん来るんですよね。
「なぜ人はクジラを见に来るんだろう?クジラで本当に癒されるのか?」と、次はそっちの兴味が涌きました。
日本の中でも、古くから捕鲸で生计を立てている人たちがいる一方で、わざわざ小笠原までクジラやイルカに癒されに来る人がいる、ということに関心がありました。ですから、ユースホステルを访れる人たちに「なんでクジラを见に来たいのか?」とか「见てどうだった?」とか、いろいろ话を闻いたりして。
そういう活动をやりながら小笠原で楽しく过ごしました。この时の経験が、今の言叶でいうと多様な価値観を许容するとか、そういうことにつながるのではないかと今では思います。
そうですね。
新卒で入社しました。
つながってないですね。
これはですね。
先ほど申し上げたように、大学院の1年生の时に小笠原に行きました。そして、2年生で修士论文を书かなければいけないのですが、修士论文の研究は千叶県の和田浦の捕鲸基地でやるっていうことを决めていたんですね。
调査をしっかりするために渔期はずっと千叶にいるつもりで捕鲸会社とも话をつけておいたので、早く就职先を决める必要がありました。
要は、準备などのために6月ぐらいには千叶に行きたかったんですね。
そのために、早く内定を出してくれる会社で决めなければとなると、外资系が早かったんですね。
本当にお耻ずかしいんですけど、あんまり就职について考えてなかったんですね。
ただ唯一、冈山の田舎から出て来て筑波に6年间いたので、次は东京で働くっていう明确な目标はありました。
东京でバリバリ働くと、と言っても正直、业界とか职种のこととかよくわからなかったんです。
当时は、今と比べるとあまり情报もなかったですし。
インターネットもまだそんなになかったので、マイナビなどが発行するそれこそ电话帐みたいな就职情报誌を见まして。本当に何も考えずに行ったんです。

会社説明の际に、面接官だった社员がめちゃめちゃ楽しそうだったんですね。彼らのお话を闻くと、すごく面白いことやってそうな会社だなと思いました。
逆に言うと、公司研究も何もしてない。
そんな私なんかをよく採用したなって思うんですけど、本当にすぐに内定をいただけたので、もうこれでいいなと思ったんです。
1999年に入社しているので、约25年です。まさかこんなに长くいるとは!
昔は、当社は今よりもっとシステム开発などが中心だったので、新入社员は、いわゆるプログラミングなどシステム开発の仕事をずっとやることになります。
ただ私はクジラの研究しかしていませんでしたし、当时は大学でプログラミングといった授业もほぼなかったので、あまり知らなかったんですよね。
それを会社に入ってやると闻いてびっくりしたぐらいですね。
「こんなことやるの?」と。
今でこそこんなに明るくやっておりますが、最初の数年は暗かったですね。
今思うと、辛いし、もう「やめよう、やめよう、こんな仕事できない。」って、ずっと最初の顷は思ってましたね。
やっぱり难しかったです。正直私からすると。
何が一番かというと、そもそもやってること自体がわからないっていう难しさですかね。
今回、このお话をいただいた时に私もいろいろ振り返って考えたんですけど、なんて言うか、やっぱり私の行动や思考の基本的な部分って、筑波大学で教えてもらったものかなって私は思っているんです。
それは当时の教授だったりとか、周りの研究室の仲间たちから教えてもらったことなんです。
私はよく、「本徳さんって、パワフルさと軽快さを両方持ってるね」って言われるんですね。
パワフルさっていうのは、目的达成のためにこうやるべきだって决めたら絶対にやってやるというか、なんとかしてプロジェクトを前に进めるとか、交渉をなんとしてでも続けて进めていくみたいなことです。こうやるべきだって思ったらそれを突き通すために、目标に向かって突き进んでいくパワフルさがあると言われることが多いんですけど、もう一つすごくよく言われるのが「軽快だね」ってことなんですね。
自分なりにいろいろ考えていくと、これこそ私は、筑波大学で学んだことだなと思っています。
この「軽快である」ということですね。
当时、恩师の2人の先生と日々过ごす中で、「心を常に軽快にしろ」っていうのを先生たちがよくおっしゃってたんですね。
それは研究においても人生においても大事なことだっていうことをよくおっしゃっていて、先生たちはそれを実践している方だったんです。

佐藤俊先生(右))
先生が良くおっしゃっていたのは、「人が心に屈託を持つとか、心が重くなる时は、だいたい、あれやんなきゃとか、あの人にこれ言わなきゃとか、どうしよう、どうしようって、ずっともにゃもにゃ考えていると心が重くなって、屈託だらけの人间になるし、そうすると心が重いし、楽しくもない。」ということです。
心を常に軽快にするということは、やるべきことをさっさと済ますということで、勉强でも仕事でも「ごちゃごちゃ言わずにさっさとやれ」みたいなことですね。あるいは、やらなくていいことはきっぱりやらない、ということも教えていただきました。
あるいは、「"考える"と"悩む"は违うんだぞ」とも。
考えてちゃんと解决して一个一个溃していくみたいな考え方と、永远の堂々巡りみたいに悩むのは违いますよね。
答えがなくてずっと悩むことと原因や解决策を整理して物事を进めることは全然违うみたいなことを、先生がずっとおっしゃってたんですよね。
私、その时は、「先生は简単に言うけど、そんなことできないよ」って思ってたんですけど、今思うと、私のこの軽快さの原点ってあれだなとすごく思っています。
それが多分、今の私の仕事にもすごく活かされているので、周りから见ると「本徳さんっていつも気楽そうにやってる」ように见えるんですね。
「それはこうやってやればすぐできるじゃない!」みたいな感じで、私はすぐ言っちゃうんですね。
軽快であることって、私はすごく大事だと思うんですけど、意外と日本人ってこれを大事にしないなって思っていて、深刻そうに考えたり、简単なことをわざわざ难しく言ってみたり、いつまでも解决しないで课题を抱えていたり...。
先生たちの生き様を间近で见ていたことが、今、私がこの仕事をやってることにつながるのかなって思うので、そういうところはすごくありがたいなって思いますね。
いい先生に出会えてよかったなと思います。

大学のご厚意で连络先を教えて顶き、まずメールをお二人に出したら、それぞれからお返事いただけました。
先生ご自身の近况、また、20年以上直接连络してなかったんですけど「周りの人の话から本徳さんが社会で活跃していることは知ってました」というようなことを书いてくださって、嬉しかったです。
あと、もう一つ、今の私に大きく影响を与えていると思うのが、やっぱり筑波大学のユニークさですね。
筑波大学での学生生活は、いわゆる普通の女子大生みたいな感じではないと思うんですよね。
当时はそんなにおしゃれなレストランに行くわけでもなく、东京の女子大生みたいにハイヒール履いておしゃれして何かするわけでもないので、女子大生ってこうでなければいけないみたいなのに缚られないというか。
私は私でいいとか、人と违っても别にいいじゃんとか。
そういうことを突き通している友达が周りにいっぱいいたので、人と一绪じゃなきゃいけないみたいなことに追われるというか、迫られることがなかったのが筑波の良さかなと、私はすごく思いますね。
东京などの大都市にいると、いろんな大学の学生が周りにいて、こういうふうにしなければいけないとか、就职活动に向けてこういう準备しなければいけないとか思ってしまう気がします。ただ、筑波の人って本当に自由な人が多くて、私の周りなんかは就职とか一切考えないでずっと考古学の発掘やってる人とか、宗教学や哲学の难解な本をずっと読んでいて「この人就职とか考えてるのかな」と思うような変わった人がいっぱいいたので、こうでなければいけないみたいなのを、気にしなくなったなって思いますね。
当时は、"多様性"なんて言叶もあんまりなかったと思うんですけど、今思うと、筑波大学の中には多様性がありましたし、他の一般的な大学のことを考えても筑波大学は独特のところでしたね。
筑波のいいところって、それで卑屈になるんじゃなくて、なんか自信につながるところがありますね。
私たちは私たちでいいのよ!みたいなのが位置づけとしてあるような気がするんですよね。
すごくそれは筑波大学の贵重なポジショニングというか。
ちなみに、筑波大学がライバルって言ったら変ですけど、そのように位置付けている竞合の大学ってあったりするんですか?
そうですよね。
学部の幅もすごく広いじゃないですか。
人文から国际関係、自然、理工学、情报、体育、芸术、医学部もあって、それ以外にも幅広くあるみたいな。
だから、そういうところがすごいユニークさっていうんですかね。
だから、変に东京の大学みたいにならないでほしいなと思っています。
[聞き手 広報局次長 髙井孝彰]