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TSUKUBA FUTURE #081:マイノリティ問題への文化人類学的アプローチ

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図書館情報メディア系 照山 絢子 助教


 発达障害という言叶を目にするようになったのは、それほど昔ではありません。ここ10年、せいぜい20年といったところでしょうか。むろん、突然出现したわけではありません。教育现场では、落ち着きがないとか、勉强で遅れをとるなどの「问题児」が、どのクラスにもいたものです。文部科学省の2012年の调査では、通常の学级に在籍する生徒の6.5%は、特别な教育支援を必要とする発达障害だと推定されています。


 亲の仕事により「帰国子女」だった照山さんは、异文化研究への兴味を募らせました。そして留学先のミシガン大学大学院で文化人类学を専攻するにあたり、外から见た日本を研究対象に选びました。结果的に、日本の学校教育の中のマイノリティ研究というテーマにした背景には、日本の学校が帰国子女としてなじめなかった自身の体験がありました。ただ、博士研究のテーマを设定した时点で日本の教室で目立っていたマイノリティは、(日本公司海外进出ブーム时の)帰国子女ではなく、発达障害と诊断された生徒でした。


帰国子女という境遇のおかげで、
マイノリティ性をフラットに见る视点を身につけられたと语る


 発达障害者支援法が制定されたのは2005年。それまで、知的障害を伴わない発达障害は支援の対象外でした。言うなれば、「见えない障害」だったのです。照山さんは、调査をしていくうちに、子どもたちやその亲の多くは、「障害」を隠して学校や世间と折り合う生き方をしていることに気付きました。しかしその结果、谁もが「生きづらさ」を感じていたのです。支援法の制定により、「発达障害」という言叶が认知され、支援や配虑が受けやすい环境の整备が进みました。ただし、学校现场での支援は、教育课程の修了と就労支援に置かれがちです。人の幸福には、家族、友人、恋爱、趣味など、それ以外の精神的な充実も重要なのに、公的支援はそうした余剰の部分を考虑していないのです。発达障害者である当人やその家族という「当事者」が积极的に声をあげることも多くなっています。その中で照山さんは、当事者ではない自分が研究者として当事者の声を集めるという立ち位置に思い悩みました。そこでたどり着いたのが、日本社会でマイノリティが置かれた状况を文化人类学的に调べることで、日本文化の特异性を照らし出すこと、それが自分の役割だという覚悟でした。この覚悟にすぐに到达できたわけではありません。障害者研究に関わる中で、引きこもり问题やニート问题にも関わるようになり、どの当事者もみな、それぞれ「生きづらさ」を感じていることを知ったことが大きかったといいます。これは、日本文化の特徴と连関しているかもしれないと考えるようになったのです。


 照山さんは、数年前から、研究対象を生徒から教师にも広げました。二人の研究者と共同で、小中高の教坛に立つ障害をもつ教师の调査も始めたのです。叁人で科学研究费も获得し、全国16名の教师を対象に、ライフヒストリー调査を终えています。成果を出版するためのクラウドファンディングにも成功しました。视覚障害、聴覚障害、肢体不自由、発达障害と、障害の种类や抱える事情はさまざまです。でも、「完璧さ」が期待される职场でみなさんそれぞれの道を切り开いていることがわかりました。ただしそこから浮かび上がってきた课题は、2016年に改正された障害者雇用促进法が要请する「合理的配虑」です。障害者には、配虑を要请する権利がありますが、雇用者や社会はどのような配虑をすればよいのでしょう。あるいは、そもそも声を上げにくい环境で、声なき声をくみ上げる配虑とはどのようなものなのか。日本では、他人に迷惑をかけないことを美徳とする、暗黙の文化的背景があります。文化人类学者の腕の见せ所です。


 3年前に筑波大学に着任した照山さんは、図书馆、コミュニケーション、マイノリティというキーワードから、ヒューマンライブラリーというイベントの研究にも着手しています。これは、2000年にデンマークで始まったイベントで、マイノリティに属する人を「本」に见立てて贷し出し、その人の话を1対1あるいは1対数人で闻けるというものです。マイノリティ性の启発と社会的な偏见の低减を目指すイベントですが、そもそも「マジョリティ」に実体はあるのかという见直しの机会ともなりえます。照山さんは、「マイノリティとの対话」という総合テーマを掲げ、これまでの研究とこれからの研究をつなげ広げていく构想を描いています。


文責:広報室 サイエンスコミュニケーター


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