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TSUKUBA FRONTIER #004:国家とは何か 古典的な視点から現代の憲法を読み解く

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ビジネスサイエンス系 大石 和彦(おおいし かずひこ)教授

1964年  ?长野市生まれ
1983年  ?长野県立长野吉田高校卒业
1990年  ?东北大学法学部卒业
1993年  ?东北大学法学部卒业大学院法学研究科前期2年课程(公法学専攻)修了
1993年4月 东北大学法学部助手
1997年4月 白?大学法学部専任讲师
2000年4月 白?大学法学部教授
2004年4月 白?大学大学院法务研究科(法科大学院)助教授
2005年4月 白?大学大学院法务研究科(法科大学院)教授
2009年9月 筑波大学大学院ビジネス科学研究科法曹専攻教授
2011年9月 筑波大学ビジネスサイエンス系教授


近代立宪主义と宪法

 法によって国家権力を缚る、という近代立宪主义の基本発想に基づいて考えると、人権が保障され、民意を根本においた统治(民主主义)や権力の分立が明确に謳われている日本国宪法は「良い宪法」だと言うことができます。しかし、法というのは社会を动かすソフトウェアのようなもの。人间がプログラミングするのですから、当然「バグ」もあります。宪法にもバグはあって、规定されていない部分や解釈に幅のある表现が含まれています。
 それでも日本国宪法はこれまで一度も改正をされませんでした。国家の基本となる法を変えるというのは重大なことです。诸外国では何度も宪法が改正される例もありますが、ほとんどの场合、その内容は手続き规定などの軽微なものにとどまっています。アメリカでは、200年以上の宪法の歴史の中で20数回の改正が行われたものの、大きな改宪は、南北戦争を経て平等権条项(奴隷制の廃止)を追加したことと、第一次世界大戦后に女性の参政権を认めたことぐらいしかありません。国民同士が血を流すような惨事や、国を二分するような大论争がない限り、宪法とは原则的に変わらないものだというのが、宪法学の基本的な见方です。

宪法学の作法

 宪法学は基本的に「考える」学问です。自然科学のように、データを蓄积して理论を组み立てたり、実験によってそれを検証することはできません。ある説が唱えられると、それが実社会に适用された场合に起こりうる矛盾点などを探して、古典的な学説や过去の判例などをもとに论戦が繰り広げられます。それに耐えて残ったものが通説として定着していきます。これらの通説は、新しいものに淘汰されたり、时代とともに进歩するのではなく、そのままで妥当性が保たれることも少なくありません。ですから、现代の新しい问题に対して何世纪も前の古い学説が引用されることも珍しくありません。むしろ最新の问题、例えば、クローン技术の规制は学问の自由を侵害することになるか、というようなテーマを、古典的な视点から议论するところに宪法学の醍醐味があります。哲学の分野で、いまだにソクラテスやプラトンが研究されているのと似ています。
 理想的な宪法ならば世界中で共通のものになってもおかしくないようにも思えますが、各国の宪法にはそれぞれの歴史やお国柄が反映されています。そのため、同じ近代立宪主义の下で作られた宪法でも、国によって异なる内容が规定されているのです。それでも、基本的人権は普遍的な概念であり、最近では、海外の宪法や判例が日本の宪法判例にも引用されるようになってきました。公务员の政治活动への参加や、非嫡出子の相続権の平等化など、それを认めることでもたらされる社会秩序への影响などを、欧米の事例をも参照しつつ、论じることができます。

静かなるビッグヒート

 このような手法で営まれる宪法学は、新たな発见やブレークスルーによって飞跃的に研究が进むような分野ではありません。现行の宪法の范囲で、その时々に起こるさまざまな问题の解决となるような解釈を探っていく営みだともいえます。万人が纳得できる唯一の正解がない中で、社会の动向なども踏まえて、人々に最も受け入れられる最适な解决策(落としどころ)を提示します。宪法学者の长谷部恭男教授が「宪法学は芸である」と言っていますが、新旧の学説や判例を駆使して论拠を构筑する作业は、确かに一种の「芸」のようなものかもしれません。
 最高裁判所は判例という形で、条文の曖昧な部分に具体的な意味づけをしていきます。それに対してさらに研究者の考察が行われる。そのプロセスには、芸事のような侧面はあっても、この社会のしくみを决める热い议论があります。

法を通して国家を理解する

 戦争によって何千何万という人が命を落とす。その戦争は国と国の间でおこります。つまり、国によって人の命が夺われる。そのようなことをしてしまう「国」とは何なのか、中学生の顷に抱いた素朴な疑问が宪法学へ进む原点となりました。国家のルール、国家権力を缚る法が宪法だからです。
 法は、条文として存在はしていますが、その意味は観念的なものです。その法によって、国家が戦争をおこしたり、刑事罚を科したり、税金を徴収したりします。考えてみれば、人の命や财产を夺うという点では、犯罪と何ら异ならないとも言えます。しかし私たちはこれを适法行為として受け入れています。それは私たちが法を通して国家の活动を理解しているからです。法とは无縁に暮らしていると思っていても、潜在的に法から逃れることはできないのです。
 実は、最高裁判所の裁判官に限っては、内阁に任命されれば司法试験を受けなくてもなることができます。最终的な宪法判断には、より広い知见を反映させることが重要だからです。裁判员制度が导入され、一部の法的判断には市民の知见が取り入れられるようになりました。难解な议论の多い法の世界ですが、私たちとの距离は近づいています。


 

(文責:広報室 サイエンスコミュニケーター)