TSUKUBA FRONTIER #024:古代ギリシャから東京へ 日本人はオリンピックに何を求めてきたのか
体育系 真田 久(さなだ ひさし)教授
筑波大学大学院体育研究科修了。博士(人間科学/早稲田大学)。筑波大学体育系教授。つくば国際スポーツアカデミー(TIAS)アカデミー長。オリンピックに関する歴史研究、およびオリンピック教育に関する実践的研究に従事。 IOC公認筑波大学オリンピック教育プラットフォーム事務局長、日本オリンピック?アカデミー副会長、東京オリンピック?パラリンピック競技大会組織委員会参与、同組織委員会文化?教育委員会委員。2019年NHK大河ドラマ「いだてん」では、スポーツ史考証を担当。
オリンピックと日本
国际的なスポーツの大会は、竞技ごとにたくさんあり、オリンピックよりハイレベルな大会も少なくありません。それでもオリンピックは特别な大会として、多くのアスリートが憧れ、见る者の関心も断然高まります。
その理由は、様々な竞技が一堂に集まるところにあります。竞技を知ることができるだけでなく、选手村が作られ、国や竞技を越えて人々が交流する场にもなっています。このことが、オリンピックを别格なものにしています。
1896年に始まった近代オリンピックが日本に绍介されたのは1909年、筑波大学の前身である东京高等师范学校の校长だった嘉纳治五郎が、アジア初の国际オリンピック委员に就任したことがきっかけでした。嘉纳は、1940年大会に向けて热心に招致活动を行い、その精神を受け継いだ人々が、招致ライバル国であったイタリアのムッソリーニ首相に直谈判するなどして、东京开催を胜ち取りました。
残念ながら1940年大会は、第二次世界大戦により、开かれることはありませんでしたが、この时も含めて、日本で开催されるオリンピックには、復兴と平和が常にキーワードに掲げられます。日本人にとってオリンピックは、震灾や戦争から立ち直るための粮でもありました。
国民体育という思想

柔道の创始者として知られる嘉纳ですが、国际オリンピック委员への就任を要请されたのは、日本ではまだスポーツという概念もなかった时代に、その普及に努めた功绩からというべきでしょう。
嘉纳は体が弱く、いじめられていた悔しさから柔术を始めました。すると、短気な性格が落ち着き、物事を俯瞰できるようになりました。この体験から、柔术を世の中に広めようと考えましたが、流派がいくつもある上、师匠から弟子へ、口伝で技を伝えるのでは限界があります。そこで、技やルールを文字に书き起こし、体系化して、柔道という新たな竞技に発展させました。折しも、知育?徳育?体育という叁育主义がイギリスから导入され、これらを兼ね备えた教育ツールとして、柔道は最适でした。
嘉纳の弟子たちは、海外に渡って柔道を広めました。柔よく刚を制す、相手の力をうまく利用することが柔道の基本。体格的に劣る日本人が次々と相手を投げ飞ばすことに、外国人は一様に惊いたといいます。
一方で嘉纳は、学校の教科だった「体操」に、武道や西洋のスポーツを融合し、「体育」を构筑しました。さらに、年齢?性别や运动能力に関係なく、またお金をかけずに国民みんなができるスポーツ、すなわち「国民体育」として、水泳や长距离走などの普及にも腐心しました。
自分を高めるためのスポーツ
さて、日本にオリンピックが绍介された3年后の1912年スウェーデン大会には、最初の代表选手2名が派遣されました。その一人がマラソン选手の金栗四叁です。东京高等师范学校の学生だった金栗は、全校行事の长距离走大会で、校长の嘉纳に见出されました。以来、本格的に长距离走に取り组み、マラソンの世界记録を出すまでになりました。当时の日本ではまだ靴が普及しておらず、独自に改良した足袋を履いての记録达成です。
金栗はオリンピックに3回出场しましたが、猛暑や雨による体调不良や、ペース配分の失败などのため、一度も完走はできませんでした。この経験から、のちに、一生悬命练习して败れるのは决して不名誉なことではなく、むしろ赏賛すべきである、と説いています。
マラソンの父といわれる金栗は、箱根駅伝を创设したことでも有名です。コース上には旧所名跡が多く、そこを走れば地理や歴史の勉强にもなるという発想です。また、走る?歩くといった动作は最も基本的な运动で、年齢を重ねても各自のペースで続けることができることから、自ら全国各地を走り、长距离走を推奨しました。目标を持って走ること、そのために努力することで达成感が得られ、品位も向上すると考えたのです。结果だけにこだわらない、人として成长するためのスポーツ、という思想は嘉纳の教えに通じています。
次世代へ伝える无形のレガシー

オリンピックにおける復兴や平和というメッセージは、高度経済成长期には、交通网や施设などハード面の整备という形で具体化されました。これらはいわゆる「レガシー」として残っています。しかし、インフラや経済が成熟した今の日本では、ソフト面のレガシー作りが求められます。
その観点から、2020年の东京大会に向けて取り组まれているのが、オリンピック教育です。オリンピックの理念やフェアプレーの考え方を伝えるための教材を监修し、各学校へ配布しています。1964年の东京大会以来、日本はオリンピック教育に热心で、今回の教材も充実した内容に仕上がっています。同时に、高校生以上を対象とした、ボランティア育成にも携わっています。
开催国のメリットは、谁もがオリンピックに参加できるチャンスがあるということ。ボランティアとして関わるのはもちろん、応援や観戦を通して、地元ならではの思い出を作ったり、前向きに顽张る希望を持つことも、オリンピック参加の形です。そういった记忆が次世代へ受け継がれていくことこそが、无形のレガシーになるのです。
700オリンピアードの歴史を総括する
オリンピック史では、最初の古代オリンピックが行われた紀元前776年から、 4年毎にオリンピアードという単位で数えます。4年というのは中途半端な感じもしますが、当時はポリス(都市国家)によって異なる暦が使われており、そのずれをリセットするタイミングでオリンピックが開かれるようになりました。暦だけでなく、ポリス間の争いごとなどもリセットする意図もありました。
そのように数えると、2020年の东京オリンピック?パラリンピックは第700オリンピアードにあたります。その歴史を开催国として総括できるのは、研究者にとっては幸运なこと。ヨーロッパで筑かれたオリンピックという文化が、日本でこれほど热烈に受け入れられるのは、ある意味、不思议な现象です。
その理由として考えられることの一つは、やはり嘉纳治五郎の影响でしょう。胜败を争うスポーツに、教育の视点を加えたことで、日本では「体育」という独特のスタイルが普及しました。これが、国民全体にスポーツを広め、スポーツとの関わり方に多様性を与えたのです。体育の普及に悬けた、嘉纳の情热の源に思いを驰せつつ、700オリンピアードを迎えます。


(オマーンオリンピック委员会より本学に寄赠された盾)
(文責:広報室 サイエンスコミュニケーター)